株式会社ブンブンファクトリー代表取締役社長 志水まさゆき






それは日本がバルブ経済絶頂期だった1989年、当時高校3年生だった僕はその時受験生にもかかわらず、『お母んの勉強しいや攻撃』をなんとかくぐり抜け夕飯の後、テレビで日本テレビの「アメリカ大陸横断ウルトラクイズ」を見ていた。

その日は最終回で、なにげなく見ていた僕は、
番組が終わった後に、何故だかわからないがとても心が熱くなっていた。

たしか第13回だったと思う、その時優勝したのは立命館大学学生の長戸勇人さんという人で、
その当時24歳で高校生のころからウルトラクイズで優勝するんだいとゆう夢を長年抱き努力を重ね、そして7年越しの夢をその第13回アメリカ大陸横断ウルトラクイズで実現させた。

人間が1人長年望み続けた夢を現実に変えた瞬間を、ブラウン管を通して18歳の若造は目撃してしまった。

たかが一つのクイズ番組じゃないかと思われるかもしれないが、その第13回は、特別に人に何かを訴えかける様な見事なストーリーが出来上がっていたように思う。

クイズの実力では出場者の中でけっしてずば抜けたものではなかったが、
長戸さんの夢を叶えてやるんだという気迫と情熱がまさにその夢を現実のものとし、熱い魂と情熱がブラウン管ごしに全国のすべての視聴者に届いたような気がした。
(20年近く経ったいまでも、一回しか見てないのに何故だかその熱気はまだおぼえている)

その時司会のトメさん(当時はズームイン朝の司会をやっていた)もかなり熱くなっていて、
どこどこにズームインという時の10倍ぐらい熱くなっていた様に思う。

そして若く何にでもすぐ感化されやすい年代だったためなのか分からないが、その番組を見終った後、すぐさま新品の大学ノートにこんなことを書いていた。

『わかった、生きるということは夢を持つこと。そしてその夢に向かって走り続けること。その夢を実現することは、誰にもできることではない、その途中には絶望があるし、越えることのできそうにない高い山がある。けれどそれを乗り越える勇気と情熱をもっていればおそれることなどない。それは必ず実現するんだ。』と。
 
その当時田舎の受験生で夢なんて持ってなかった僕は、まず自分の夢を探した。
そして『よしあの熱い男のいる大学に行ってみよう!』と思い、「立命館大学合格」という夢をさっそく掲げた。

その時点で、正直にいうと偏差値は47ぐらいしかなかった。おまけに入試試験まであと数ヶ月しかない。
数ヶ月で20近くの偏差値を上げる必要があった。

その後クラスの担任に「立命館を受けます」と言うと、当然のようにこのような応えが返ってきた。「あほかお前が受かったら、わしはフルチン逆立ちで校庭一周したるわ!」と。

今から考えれば担任がそのように言うのは至極当然で、もし今僕がその担任の立場であっても同じことをいっていただろう。いや校庭一周どころか、『フルチン逆立ちで日本一周ヒッチハイクの旅』ぐらいいっていたかもしれない。それぐらい厳しい現実だったと思う。

しかし当時若く血気さかんだった僕は、その担任の一言を聞いて完全に切れてしまった。
小さい時から親に「お前はやればできる子や、宝の持ち腐れや」と何の根拠もなく洗脳(?)されて育ってきたので、おれにやってやれない事はないと本当に根拠のない自信だけが自分の中にあったのだった。

そしてあの担任のおっさんをぜったいにみかえしてやる、絶対にフルチンにさして校庭1周さしてやると心に誓った。

その後、あの担任の一言の悔しさを忘れないために、大きな白い紙に担任の似顔絵を自分で描いて部屋に貼った。アイドルとかミュージシャンのポスターじゃなく、髭濃いおっさんの似顔絵(しかも自分で描いた)に僕の部屋は彩られた。もうやるしかない。

そんな大袈裟なと思われるかもしれないけど、その時の僕には「担任がやられるか、おれがやられるか」命を賭けた生存競争だ、というくらいの気持ちになっていた(笑)。

その日からまさに地獄のような毎日がはじまった。

最短で、ゴールにたどり着くための戦略を練りに練った。
受験課目は、英語と国語と社会の3科目で、英語だけがそこそこ良くてあとは最悪。
社会は日本史を専攻し、いままで勉強していたが本がぶ厚く覚えることが多すぎて、急遽政治経済で受けることに変更した。
社会と言えば日本史か世界史で受けるのが主流で、政経で受ける人間はかなり特種であった。

取りあえず学校には毎日通っていたが受験科目にない授業の時は、先生にばれない様にその3科目だけをひたすら勉強した。

生物の授業の時に、一人だけ政治経済の本を拡げ勉強をしていたら、かなり手厳しいことを言われたが、完全に無視。
その当時友達は多い方であったが、休み時間にもお昼休みも黙々と本を拡げ勉強をし始めた自分を見てうざったがり、なぜか友達の数がおそろしく激減してしまった。

とても悲しかったが、けれど友達には申し訳ないが、しかたがないことだった。おおげさなといわれるかもしれないけど、その時の僕には「合格か不合格か」ということが、「生きるか死ぬか」という生死をかける気持ちでやっていたのだから、回りになんていわれてもそれは重要なことではなかった。
睡眠時間も毎日2、3時間で、起きている22時間ぐらいはずっと勉強しているという生活が5ヶ月ほど経ったあと・・・

奇跡的に第一志望の立命館の法学部に合格することができた。

合格してわかったことだけど、自分の部屋に担任の似顔絵まで貼り、「このおっさんを見返してやるフルチンにさしてやる」と思いやってきたけど、結局は自分自身との戦いだったんだなと。
もし駄目だった時はもう一人の自分にパンツを下ろさせられるっていうことなんだと。

合格発表の日の夜、合格したということを知り本当にうれしくて家の風呂につかりながらポロポロと泣いてしまった。
うれし涙て本当にあるんだとおもった。
あまりにも泣いたもんだから風呂の湯加減が最初熱かったのが、ちょうどよくなった(それはジョークです)。

そして、卒業式の日に久々に学校へ行くと、そこに担任がいた。
担任は僕がすでに合格したことを事前に知っていた、そして「おい!やったな」と満面の笑みを浮かべていた。

内心本当に嬉しかった。その笑顔を見たらフルチンのことなどどうでも良くなった。よっぽど満面の笑みでお返ししようと思ったが、そこは、わざとぶ然とした態度で「こんなもんすよ」と言っておいた。めちゃめちゃ気持ち良かった。ほんとうにうれしかった。

生涯のなかで、あんなに気持ちの良い「こんなもんすよ」はないとおもう。

今から思うと、ボンクラ学生を本当にやる気にさしてくれた、先生のあのフルチン発言に本当に感謝している。

そう言えばある日ポロっと「ちょっとボンクラなやつの方が、やるとなったら根性あるんだから、受験に成功したり何かなしとげるもんだ」と言うようなことをいっていたのを思い出した。
あのフルチン発言が出た背景には、かなり厳しいことは分かっていながらも、僕のわずかの可能性を信じてくれたからこそ、出てきた言葉であったと思う。

先生、ありがとう!

記:2008年4月10日
私の履歴書・・・続く