マサーヤン



本名:志水 まさゆき
身長:175cm 体重:62kg
血液型:A型


1971年9月8日 京都市左京区生まれ。寿司屋の次男坊としてこの世に生を受ける。出産時は逆子で産まれ無呼吸状態だったがなんとか息を吹き返す。幼稚園は京都市右京区にある西院幼稚園に。小学校は西院小学校へと入学。小学校一年の二学期に、家の商売の事情で山口県美祢市へと転居。突然の身の回りの環境変化に驚き、山口県の転校先の小学校にもびっくりするほど馴染めずに(関西弁が通じず宇宙人扱いをされ友達ができなかった)、小学校一年生ながら『これが人生の苦労というやつか…』と悟りが入る。おそらく人生最初の挫折。三学期になり、またまた家庭の事情で山口県下関市へと転居&転校。同じ山口県内、2度目の転校ということで、ここではスムーズになじむ。 この頃によくしていた親を悩ます質問は「なんで"あいうえお"は50音なん?なんで色は7色なん?」という、今から考えるとものすごく深く哲学的な質問をしていた。

◇ 小学校時代
いじめられっ子でもなくガキ大将というわけでもなく、ごく平凡な小学生。海や山や川で遊ぶこと、釣り、漫画を描くことを好む。

◇ 中学・高校時代
中学校の3年間は、卓球部で部活道に打ち込む。県大会団体戦で2位までいく。運動部の中で一番ラクそうな卓球部を選んだら、鬼のしごきと練習量の部活だった。
高校は市内の公立高校へと進む。入部した卓球部の顧問の先生の指導方針が肌にあわず、高校一年の一学期で辞め、その後は帰宅部へ。この頃から思春期&反抗期特有のモヤモヤした気持ちを抱え、勉強もしなくなり成績も落ち、人生2度目の挫折。この頃の趣味は「人生の意味を探すこと」

◇ 両親について
父親:福岡県生まれ山口県育ち。大学進学で京都に行く。在学中ラジオ劇団の声優として学生劇団の全国大会で大賞を受賞。審査員の藤本義一さんに芸能界へ進むことを勧められるが、その後大病を患ったことが原因で卒業後は京都信用金庫に就職。終身雇用が当たり前であった時代に、自分の信念に従うように銀行を7年務めた後、結婚し家族があるにも関わらず脱サラし寿司店の板前の丁稚奉公にいく。

母親:京都生まれ京都育ち。母子家庭で育ち歳の離れた幼い弟の面倒を小さい時から見る。京都女子高校卒。祖母の商売の手伝いを高校の時から結婚するまでする。夢はサラリーマンの旦那さんと結婚すること。銀行員の父親と結婚し夢叶う。がしかし、父親は銀行を脱サラし寿司店を開業。サラリーマンの旦那さんという夢がつかの間で終わる。。母親の母(祖母)と共同経営していた寿司店のことで、父親と祖母の確執から父親が親元である山口に帰る決断をした際、離婚を覚悟するも自らが幼少期から父親がいなく苦労した経験から、自分の子供にだけはそういう思いをさせたくないと山口に帰る父親についていく。



当時高校三年生で大学受験を間近に控えていた受験生であったにもかかわらず、ある日の夕飯のあと、お母んの『あんた勉強しいや攻撃』もなんとか耐え、のんびりとTVで「アメリカ横断ウルトラクイズ」を見ていた。その日の放送は優勝者が決まるという最終回で、ただのクイズ番組と思いながら、ほんとうになにげなくTVを見ていた自分は、番組を見終わった後に猛烈なほど心の中が熱くなっていることに驚いた。たしか第13回だったと思う、その時の優勝者は立命館大学の長戸勇人さんという人で、当時24歳。長戸さんは高校生のころから"ウルトラクイズで優勝するんや"という熱き夢を抱き努力し、そしてついにその夢を実現させてしまった。一人の人間が夢を叶えた瞬間をブラウン管を通して18歳の若造は目撃してしまった。ただのクイズ番組でしょ?と思われるかもしれない、がしかし、ただのクイズ番組と思うなかれ、その第13回は人に何かを訴えかける様な見事なストーリーが出来上がっていたのだった。クイズの実力では出場者の中でけっしてずば抜けたものではなかったが、夢を叶えてやるという気迫と情熱がその夢を現実のものとし、その様子が田舎の一視聴者の心をうった。その時司会の福留アナウンサー(当時はズームイン朝の司会をやっていた)もかなり熱くなっていて、「どこどこにズームイン!」という時の10倍ぐらいはテンションが上がっていた様に感じた。そしてその番組を見終った後、熱くなってやり場のない自らの気持ちをズームインするがごとく、勉強用にはろくすっぽ使っていない大学ノートを開き見開き2ページいっぱいに鉛筆書きでこんな文を書いていた。それはその頃の「人生の意味を探すこと」という趣味のようなものの、一つの回答が出た瞬間でもあった。

『わかった、生きるということは夢を持つこと。そしてその夢に向かって走り続けること。その夢を叶えることは誰にもできることではない。その途中には絶望があるし越えることのできそうにない高い山や壁がある。けれどそれを乗り越える勇気と情熱をもっていればおそれることなどない。それは必ず実現する。』と。
 

 その当時田舎の受験生で夢なんて何も持ってなかった自分は『よし取りあえずあの熱い男のいる大学に行ってみよう』と思い、それで「立命館大学合格」という夢をさっそく掲げた。夢と言っても、うちの父親も"寿司屋の親父"なのに彼もなぜか立命館の卒業生だったから、寿司屋の親父が行ったところなら行けるだろうと自分なりに気軽に考えた夢だった。その後クラスの担任に「俺、立命館受けます」といったら、当時偏差値45ぐらいしかなかった自分に「(笑)あほかお前が立命館受かったら、わしはフルチン逆立ちで校庭一周したるわ!」と一笑されてしまった。今考えれば、その時の自分の成績状況を見れば担任がそのように言うのはまったくもって当たり前の話で、もし今自分がその担任の立場だったとしてもまったく同じことを言っていただろう。いや校庭一周どころか『フルチン逆立ちで日本一周ヒッチハイクの旅』ぐらいは言うかもしれない。それぐらい不可能に近かった。しかし当時若くアホだった自分は、その担任の一言を聞いて切れてしまった。小さい時から親に「お前はやればできる子や、宝の持ち腐れや」とほんとうに何の根拠もなく洗脳(?)されて育ってきてたので、「おれにやってやれない事はない」と幸か不幸かただのアホか、本当に何の根拠もない自信だけが自分の中にあったからだ。そして「あの担任のおっさんをぜったいに見返してやる、大学に受かって絶対にフルチンにさしてやる」と心に誓った。その後、くやしい気持ちを忘れないために、自分の部屋に貼ってあった当時お気に入りのアイドルだった浅香唯のポスターを剥がし、その裏側に担任の似顔絵を自分で描いて部屋に貼った。自室は自分で描いた髭濃いおっさんの似顔絵だけに彩どられた。もうやるしかない。

そんな大袈裟なと思われるかもしれないけど、その時は「担任がやられるか俺がやられるか」これはもう命を賭けた生存競争だ、というくらいの気持ちでやっていた。そこからほんとうに地獄の様な毎日がはじまった。受験課目は、英語と国語と社会の3科目で、英語だけがそこそこであとは最悪。社会は日本史を専攻していたが本がぶ厚く、これはとても覚えきれないと思い、政治経済で受けることにした。社会の受験科目としてほとんどの人が日本史か世界史を選択するのが当たり前だったが、政治経済が一番教科書が薄く、もう受験日まで時間のなかった自分はこれならまだいけるんじゃないかと考えた。勉強は予備校にも通わず、基本的には参考書と進検ゼミによるすべて独学。目を覚まして起きてるすべての時間をこの3科目を勉強することに捧げた。ある日、生物の授業の時に自分一人だけ勝手に政治経済の勉強をしていたのが先生にばれて「そんなことをしても無駄だ」みたいなことを、生物の教師にいわれたけど関係なかった。その当時自分は友達は多い方だったのだが、休み時間にも昼休みも机に向かい黙々と勉強しだした自分を見て周りはうざったがり、友達の数がおそろしく減少してしまった。けれど友達には申し訳なかったけどしょうがなかった。何度も言うけど、その時の自分には"生きるか死ぬかという生死をかけるほどの気持ち"でやっていたのだから、回りになんて言われようともそれは関係なかった。睡眠時間は毎日2時間ぐらいで、電車に乗ってる間、ご飯を食べている間、もうとにかく目をさまして起きている間は本当にずっと勉強をしているという、今思い出しても地獄の様な日々が終わり入試の日を迎えた・・・。人事を尽くして天命を待つじゃないが、もう受かっても落ちてもどっちでもいいと思うくらいにやれるべきことはやり尽くした気持ちだったので、入試当日は緊張するよりもある種、すがすがしかった。

 結果は・・・国語の試験で事前に参考書で勉強していた同じ問題が出たというミラクルにも助けられ、第一志望の立命館の法学部に合格することができた。合格してわかったことだけど、担任を見返してやると自分の部屋に似顔絵まで貼り、フルチンにさしてやると思いやってきたけど、結局は自分自身との戦いだったんだなと。もし駄目だった時は"もう一人の自分にパンツを下ろさせられる"っていうことなんだと。合格発表の日の夜、本当にうれしくて家の風呂につかりながらポロポロと泣いてしまった。うれし涙てこの世に本当にあるんだと思った。あまりにも泣いたもんだから風呂の湯加減が最初熱かったのが、ちょうどよくなった(それはウソです)。
 そして、卒業式の日に久々に学校へ行き、担任に会った。担任は「おい!やったな」と満面の笑みを浮かべていた。もうフルチンのことなんてどうでもいいと思っていたし、よっぽど自分も満面の笑みでお返ししようと思ったが、そこはわざとぶ然とした態度で「こんなもんすよ」と言っておいた。めちゃめちゃ気持ち良かった。ほんとうにうれしかった。生涯のなかで、あんなに気持ちの良い「こんなもんすよ」はないと思う。今から思うと、落ちこぼれ人間を本当にやる気にさしてくれた、あの先生のフルチン発言に本当に感謝している。ある日に「ちょっとぐらいはみだしたり落ちこぼれている奴の方が、やるとなったら根性あるんだから、受験に成功したり何かをなしとげるもんだ」と言うようなことをいっていたので、あのフルチン発言は、半分は本音で半分は自分に期待をかけるためのものだったのだろう。

 



念願だった大学入学を果たし、花の大学生活を謳歌していた。大学のクラスで仲良くなった友達数人と下宿隊(全員京都市内に下宿をしていた)なるものを結成し、女子大や短大の女子との合コンに明け暮れていた。
ところが合コンに明け暮れていたその時の自分にはある一つの大きな致命的問題を抱えていた。それは自分が京都で住んでいた風呂なしトイレ共同家賃月1万円の4畳半のデラックスな下宿には電話がなかったということ。コンパでお目当ての女の子の電話番号をゲットした後には必ず欠かせない必須アイテムが電話である。しかし当時は携帯電話なども世の中になく、お目当ての女の子に電話をかけるには、靴をはいて下宿の外へと出て近くの公衆電話BOXへと足を運ばなければならなかった。う〜むどうしたものか、当時の自分にはこれがとても深刻な問題だった。ということで何はさておき自分の部屋に電話を引かなければと考えた。当時、電話を設置するには加入権が8万円ぐらいかかり、当然のごとく貧乏大学生だった自分はこのお金をなんとしても自力で稼がなければならなかった。そこで大学1回生の夏休みに、大阪に住んでいた祖母の家に泊まらせてもらい、ばあちゃん家の近所にあった野菜のしめじのパックを製造する工場で1ヶ月ほどバイトをした。真夏の炎天下の中、工場内温度は50度近くまで上がり、毎日尋常じゃないほどの汗をかき、1ヶ月働きなんとか電話設置の資金を稼いだ。
このしめじパックづくりのバイトではかなり体力を奪われ、オロナミンCの1ケース(12本入り)を一度に一気で飲めてしまうほどだった。体がこんなにもオロナミンCを要求したことは人生初めてのことだった。
そして汗とオロナミンCにまみれて稼いだお金を持ってNTTに行き、電気屋さんで最新式の留守番電話を買って来て、念願だった留守番電話機能付きの電話を自室に設置した。「これで、コンパで知り合った女の子といつでも会話ができる!やった!」この時電話を設置できた嬉しさと同時に不安なことが一つだけあった。
それはしめじパック製造のバイトの終わりぐらいからずっと気になっていたことだけど、毎日咳がとまらず風邪のような症状がずっと続いていたこと。そこで一度検査しとくかという感じで、大学の保健室へと健康診断に行った。
そこでいろいろと検査をされ、血液検査などもして診断の結果が出た。お医者の先生に呼ばれ、開口一番こう言われた。
「う〜ん、もし、僕が君の親やったら、取りあえず実家に戻ってこいと言うなあ」
どうやら、血液検査の結果よると、肝臓のGOPだかGDPだか言う数値が、データ圏外から断とつランクイン!というほど健常の人の何百倍という尋常じゃない数値になっており、肝炎にかかっているらしかった。先生いわく、入院してしばらく長い間療養が必要とのことだった。しかたがない、そこまで言われるならと、親元である山口県へと帰り入院する覚悟を決めた。四畳半のデラックスな下宿へと戻り、汗かいて苦労して手に入れた最新式のピッカピカの電話の受話器を初めて外し「俺、病気になったから実家へ帰るわ」と親へと電話。合コンで出会ったお目当ての女の子へかけるために苦労して設置したその電話の受話器を外して初めて電話をかけた先は「病気になったから帰る」という実家への電話だった。
今まで入院なんてしたことがなく正直嫌だったけど、きっと病院にはかわいい看護婦さんもいるだろうからと妄想が膨らんでいき、逆に入院生活が楽しみになっていた。
そして実家の山口県下関へと帰り、市内の大きな病院に入院することになった。そこでまた再度詳しく病状をいろいろと検査され、担当のドクターに両親ともども呼ばれた。ドクターから深刻な顔で、京都で言われたようにC型肝炎にかかっているということ、そして肝炎だけでも大きな病気なのにさらに肺結核にもかかっていると告げられた。
人間というのはある日突然ありえない現実を突きつけられた瞬間、ショックを受けるよりも先にまず笑ってしまうんだということに気づいた。ドクターに肝炎だけでなく肺結核にもかかってると言われ「どんだけ欲張りやねん。結核ってこの世の中にまだあったんか。昔の文学者か(笑)!」と、自分のことながら思わずセルフつっこみを入れずにはおれなかった。医療技術が発達した今日はそうでもないが、数十年前までは不治の病で死に至る病だと言うことはなんとなく知っていた。C型肝炎と結核をダブルで併発しているわけであるから、医療技術が発達したとはいえ大きな病気を二つ併発しているのはただ事ではないと、ドクターの深刻な表情が物語っていた。それから病室を隔離され個室での入院生活が始まった。このあたりから、自らの状況を笑えるという気持ちの余裕はなくなり、「肝炎だけならまだしも結核にもなってるとは、隔離はされるし…(凹)」自分の運命を恨みはじめ、なんで自分だけこんな目にと…どんどんと腐っていった。おそらく人生3度目の大きな挫折。かわいい看護婦さんとのムフフな妄想も気持ちが萎えるのと同時に完全に萎んでしまっていた
個室に隔離されそれからさらに細かい検査をした結果、幸いにも結核菌が外に出ない症状で、サナトリウムのようにまったく隔離されて治療をする必要はないと言われた。それからやがて大部屋へと移動。そこにはベッドが6つあって入院患者さんが6人いた。入院している患者さんのほとんどは高齢者で若くても50歳代の人で、10代は自分一人だけだった。病状もみなさん様々な病気を抱えていた。病院ってまるで刑務所ように(入ったことはないけど)社会生活から落第した人が収容されている収容所みたいだと思った。胃がんの手術でこんなに切ったんだぞと自慢そうに胸を開いて生々しい傷跡を見せまくるおじさんがいたり、生きててもなんもいいことねえが口癖のおじいさんがいたり、いろんな人生模様が一つの部屋の中にあった。自分はと言えば、白い壁に囲まれ毎日採血やら点滴やら体にいろんな管を通されたり、パンツおろされケツに注射を打たれたり、まるでモルモットのようになすがままで、やることもなく暇で一日中テレビを観ながら寝ているだけで、ほんとにそこは気の滅入る場所であった。昨日まで元気だった同じ部屋のおじいさんが次の日にはもう帰らぬ人となったり、そこには「死」というものが常に隣り合わせに存在していた。自分もまだ自らの不運を恨み「もうどうでもいいや」と相変わらず腐ったままだった。
ある日のこと、大部屋の隣のベッドに病人用のパジャマ姿なのになぜか頭はばっちりきめたリーゼントにグラサンという若い頃の舘ひろしを彷彿させる50歳のおじさんが入院をしてきた。一見めちゃめちゃ怖そうな人だったが、話をしてみると見た目とは全然違ってとても優しくまるで仏のような人だった。「今まで仕事仕事とずっと走ってきたから、入院してゆっくりするよ。体のオーバーホールだね」と車好きのおじさんは自分の体を車の修理に例えて笑っていた。ベッドが隣どおしだったということもあり、このおじさんととても仲良くなった。ある日、自分の持っていたウォークマンでビートルズのテープを聴かせてあげて「青春時代が蘇ったよ。ありがとう」と感謝されたり、奥さんとかわいい娘さん(自分と同い歳だった)がお見舞いに来て家族水入らずでとても幸せそうな姿を隣で見て自分もうれしかった。そしてその後しばらく経ったある日、おじさんの手術の日がやってきた。おじさんは、では行ってくるよと笑って手術室へと向かった。それから、手術が終わった時間を過ぎてもおじさんはなかなか戻ってこなかった。そしてその次の日もまたその翌日も隣のベッドにおじさんがもう帰ってくることはなかった。おじさんは末期ガンだった。あんなに元気そうで仏のようにやさしい人が帰らぬ人となった。19歳の若造にはとてもショッキングだった。とにかく「死」というものは常に日常にあり人間はいつか必ず死んでしまうんだということを教えられた。おじさんに「悔いなく精一杯生きなよ」と言われた気がした。それまでは自分が死ぬなんてことを考えたことはないし、命は永遠に続いていくかのように何も考えずのうのうと生きてきた自分自身を恥じた。こんなところで腐ってばかりではいられない、せっかく苦労して入った大学でやりたいことをまだ何もやっていないことに気づき、こんなところで終わるわけにはいかないと気持ちを前向きに切り換えた。生きているというありがたいこの瞬間この時間を無駄にしたくない気持ちが芽生え、それから大学ノートにとにかく自分が思ってること考えてる感じたことを言葉にして書き貯めていくことにした。もし自分の肉体がいつの日か滅んでしまっても、書き貯めた言葉だけはこの世に残ると思ったからだ。そうやって前へ向かっていこうと気持ちを切り換えると、不思議なもので半年から1年はかかると言われていた入院生活が、お医者もびっくりするほど体が脅威の回復力を見せ2ヶ月で退院することができた。「病は気から」というが本当にその通りなんだと思った。




病院を退院し大学へと戻り、人生の次の夢を何にしようか探しながら、暮らしていた。大学二回生からは劇団文文座(ぶんぶんざ)というふざけた名前の演劇サークルに入り、新入生歓迎夜祭のステージで1万人の観客を前に海パン一枚の全裸に金と銀の絵の具を全身に塗り15人ぐらいでコントをしたり、校内の学食にいきなり乱入して突然ゲリラコントをしたり、大学の近所の公園にこたつ机をまるごと持ち運び砂場の上で徹夜マージャンやったり、ギネスに挑戦と言って普通乗用車に10人ぐらいむりやり乗りこみドライブしてる途中だれかが屁をこいてただでさえぎゅうぎゅう詰めの密閉空間がさらに地獄絵図になったり、ラーメン食おうと言い京都から東京まで日帰りしたり、銭湯行こうと京都から新潟まで日帰りしたり、卒業生の追い出しコンパで京都の繁華街河原町に全員が思い思いの仮装をしてあつまり(顔の白塗りや黒塗り、変顔メイクや全裸にバスタオル一枚まいただけの風呂上がりスタイルや全裸裸足に柔道着1枚…などなど)飲みの途中、後輩が急性アルコール中毒でぶっ倒れ、居酒屋から柔道着のまま救急車で運ばれていったり・・・、ここには書ききれないほどアホなことばかりをやってるうちに大学三回生になっていた。立命館合格の次の夢をずっと探していたが、ある日のこと本屋でなにげに手にとった矢沢永吉の「成り上がり」(敬称略)を読んで、ベタなことに「ミュージシャンになる」という次の夢を見つけてしまった。それまで楽器も弾いたこともないし、歌はカラオケにいく程度、音楽もそんなに聴く方じゃない、おまけに小、中、高と音楽の成績は2か3程度、歳ももう二十歳になっている。そんな条件でミュージシャンになろうと思いますか?普通。それから近所の質屋に行って5千円でアコースティックギターを買ってきて、ギターの教則本にのってた3つぐらいのギターコードをぽろんぽろんと弾いているうちに、なんとなくオリジナル曲ができてしまった。そもそも、それがすべての勘違いの始まりだった。オリジナル曲が出来てしまったことで「あっ!あれ?俺、もしかして才能あるんとちゃうん??」と思い込んでしまった。思い込んだら行動は早かった、早速そのなんとなく出来たオリジナル曲をカセットテープに吹き込んでレコード会社の人に聴いてもらおうと思い、「成り上がり」の中で18歳の永ちゃんが最終列車に乗って広島から上京したのを真似して、最終の鈍行列車に乗り京都から青春18切符を握りしめ東京へと向かった。「成り上がり」の中で同じく永ちゃんが新橋にある東芝EMIへ作った曲を聴いてもらうためテープを持ち込むシーンがあり、それと同じようにしようと、とりあえず新橋駅で降りた。が、もう夜中だったのでその日は駅近くの芝公園のベンチで野宿をし、次の日の朝に東芝EMIを探した。けれど、「成り上がり」の中でのその出来事はその時からもう20年ぐらい前のことだったので、道行く人に聞いた話だといまは新橋に東芝はないらしく、どこか別の場所に移ったそうで、東芝の場所を聞こうと思い公衆電話で電話帳で調べて東芝EMIに電話した。「あ、あのう曲かいたんで、聴いてほしいんですけど・・・」すると受け付けのお姉さんに、「あ、それじゃあちょうど今オーディションをやってるので郵送でテープの方を送ってもらえますか」と。オーディションなんて気のきいたことやってんねや、なんや郵送でよかったんかと、近くの郵便局からテープを郵送した。その後、青春18切符が余っていたので、そのまま上野駅から鈍行に乗ってなんとなく北海道へと行ってしまった。なにをするという目的もなく函館でイクラ丼を食べ、映画を観て帰ってきた。気分を出すため質屋で買った5千円のギターも一緒に持っていっていたので、帰りの途中仙台の駅でギターケースをまくら替わりにして寝てたとき、一人のおっちゃんが近付いてきて「にいちゃんなんか一曲やってくれや」といわれたけど(おいおいミュージシャンやと思われてるぞ、、)でもギターもまだろくに弾けなくて、あせった自分は、とりあえず世間話にもちこんでごまかした。
 それから京都へと帰り、送ったテープの返事を待った。プロになったら道も普通にあるけへんようになるかもなあと、妄想が膨らみ本当に恐ろしいぐらいの勘違い野郎だった。そして数週間後、結果はもちろん『あなたの曲は不採用です』と印刷で書かれた手紙が送られてきた。いまその曲を聞くと、笑ってしまうのを通り越して、怒りがこみあげるほどボルテージの低い曲で、歌というよりも『念仏』に近い代物だ。そして若く恐れを知らなかった自分は東芝EMIだけでなく、あとビクターとソニーにもテープを送っていた。普通あの「念仏」を聞けば、誰でも「世の中をなめとんのか!」と怒りだすか、「ギャグ」だと考えるのが妥当だと思われるけど、幸か不幸かビクターの人の回答がやさしかった。一言「アレンジをしなおしてみては、どうでしょうか」と手紙に書いてあった。いま考えるとたぶん曲の感想を色々と書くのがめんどくさかったのだろう。けれどそのやさしい一言が勘違いボルテージをまたまた上げたおお!アレンジというやつをやれば、いけるっちゅうことか!(当然、アレンジの意味は知らなかった。)

 

  そして大学四回生になり、回りは就職活動をはじめ大手大企業、大手マスコミなどいろんなところに内定が決まっていった。けれど自分にとっては別にいい会社に入るために大学に行ったわけではないから、周りがどこへ就職しようともまったく関係なかった。下宿先の郵便ポストには名の知れた大企業から就職案内の資料がたくさん送られてきていたが、全部ゴミ箱に捨てていた。大学へ行けたのは、まあいってみれば、もうけもんみたいなかんじだったから。パチンコでいえば500円でフィーバーみたいな感じだったから。かっこいいことを言えば、大学入って得たものとは、「大学→大企業へ就職」という将来を約束されたレールでなく、「人間誰だってやればできるんだ」という自分に対する自信だったから。そんなことよりもどうやってミュージシャンになるかということが大問題だった。

 それから下宿の更新が近付いてきたある日、ラジカセをカバンにつめギターを抱え、大学三回生の夏休みに長野県のリゾートバイトで知り合った音楽をやっていた埼玉県の友達の家に遊びに行った。そして次の日埼玉県川越市の不動産屋の門を叩き、家賃2万円の物件を見つけその日のうちに埼玉県民になってしまった。それから埼玉のその友達とユニットを組んで、渋谷のTAKE OFF 7というライブハウスで人生初めてのライブをした。その時、文文座の仲間が15人ぐらいレンタカーを借りてはるばる京都から応援に駆けつけてくれた。涙。その後、自分の才能のなさと技術不足が露呈しユニット解散。その後半年間ほど埼玉で暮らしてまた京都へと戻った。

 その後はなんとか大学を5年で卒業し、やっぱり夢を叶えるには東京に行かなあかんと思い1995年の春、友達の車に荷物を詰め込み東京へと上京。それから東京では『コンコルドハードブレイカーズ』というバンドを結成。主に下北沢のライブハウス等で活動。全裸で大事なところに2リットルのペットボトルをかぶせただけというステージ衣装(?)のライブパフォーマンスが話題をよぶ。その後解散。

その後もフリーターをしながら、音楽活動を続ける。

1999年 パソコン(imac)を購入。
2000年 独学で勉強をしホームページを立ち上げる。と同時に、新宿駅西口でギター片手にストリート演奏を始める。
山手線全駅一周弾き語りツアーと題して、山手線全部の駅を回って駅前で弾き語り演奏。
全国主要都市弾き語りツアーと題して、札幌、京都、大阪、福岡と鈍行列車でまわる。(時間がなく名古屋には行けず)
2001年、30歳を機にフリーター生活から脱却しようと職安に併設されていた職業訓練校(カラーDTP科)へと半年間通い、DTPデザインの勉強をする。

2003年始め、消費者金融から借りていた借金が90万円になり、当時つき合っていた彼女から「別れる」と言われたことを契機に『自分改造計画』を立て実行していく。(禁煙、借金完済、家計簿をつける、TVを観ない、本を年間300冊読む、心を磨いていく)
それまでも割と本を読むほうだったが、この年からビジネス書、自己啓発、スピリチュアル系、エッセイなどを中心に本を読みまくる。

2004年に、郵便局でのアルバイトを辞め、WEBデザイナーとして独立。が、すぐに事業は軌道に乗らず生活が窮地へと陥り実家へと帰郷。ストレスから十二指腸潰瘍になる。実家でまたアルバイト生活始まる。
大学時代含めこれまでやってきたバイトは…、エアコン部品工場、喫茶店店員、しめじパック工場、レンタルビデオ店員、印刷製版制作、家庭教師、引っ越し屋、パチンコ店店員、湯豆腐屋、宝酒造で酒づくり、松本電鉄バスの車掌、西京極球場の陸上トラック張り替え、建築現場、太秦映画村雑用スタッフ、森永の工場の清掃、チラシ配り、ポスティング、ティッシュ配り、京セラ携帯電話CMエキストラ、印刷工場、東販での本の仕分け、TV番組エキストラ、新宿歌舞伎町カラオケ屋店員、ビデオ卸売り販売、ライブハウスのPA、クロネコヤマト仕分け作業、ファミレス調理、ホテル清掃、フリーペーパー誌編集デザイン、DTPデザイン、郵便局の仕分けと配達。

2006年、WEBデザイナーとして独立していくことに再びチャレンジ。関東(千葉県)へと上京。この間も音楽活動はずっと継続。

2008年、オリジナル曲3曲を録音したデモCDを制作。ホームページ上や路上演奏の際に無料配布。この頃から「農ライフ」というものを提唱し埼玉県の農地を借りて農業を始める。
2009年、6曲入りオリジナルミニアルバム『NOU LIFE MUSIC』をリリース。7月7日から12月31日まで約半年間、東京から沖縄までリヤカーを引いて歩いて各地で演奏しながら旅をする。
2010年、農ある暮らしを世の中に提案する雑誌『NOU LIFE STYLE』を制作。11月、千葉県房総半島を仲間とともにリヤカー引いて歩いて一周する。
2011年 千葉県鴨川市の古民家を借りて農ライフを行う。
2013年4月 リヤカーハウス日本一周の旅を千葉県鴨川市よりスタート。
2014年4月 リヤカーハウス日本一周の第二章を和歌山県潮岬でゴール。

 

夢は・・・

  • 1万人のオーディエンスの前で『希望の唄』をバンドで歌い、曲の最後のリフレインフレーズをみんなで大合唱すること。
  • 農ライフが広まり、誰もが幸せに豊かに安心して生きていける世界が到来すること
    (この地球上に住む人間の意識レベルが上がり、この地球という星が学びの星から卒業し優良星となること。)





 






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